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東京にはなにもない?
そんなことはありません。「見るところがない」という場所にも何かあります。なぜなら、そこには歴史があるからです。100年200年と積み上げられた物があるはずです。ただ、その間に変化の少ない場所もありますが、東京ほど短期間に変化をし、またそれが現在も同じペースで続いている都市は世界的にも稀です。外的な力によっても、自ら自身によっても、破壊と再生を繰り返しているのが東京なので、そんなスポットをまたまた巡ってみました。
以前も寄っているというか、まあ近くにあるのでしょっちゅう通ります「回向院」です。回向というのは、自らの行いや業や巡り巡って(回)他の人に影響する(向かう)というようなことです。はじまりは1657年、明暦の大火で亡くなった身寄りのない多くの人を弔うために建てられました。水死、刑死、焼死など幅広く無縁仏も受け入れられていますし、動物のお墓もあります。浄土宗のお寺なのですが、あらゆる宗派、あらゆる生あるものを供養するという立場で、かなり大きく開かれているのが特徴です。軍馬の供養塔は多くありますが、ここには軍用犬のそれもあったり、オットセイや小鳥なんかもあります。また、ねずみ小僧次郎吉の墓があるのは有名です。
いつも目にしているが立ち止まったことないところに、わざわざ行ってみるのも良いものです。クルマでは止める場所がなかったり、あるいは徒歩で寄っても時間がなかったりしたところがあるのではないでしょうか。ここは靖国通り沿いにある「玉置薬局」です。以前から気になっていたのですが、止まってみたことはありませんでした。”ベルツ水”という看板が目立ちます。戦前戦後の温泉について詳しい方はお察しのことかと思いますが、あまりそういう方は多くないでしょうか笑。ぼくはピンときました。群馬県の草津温泉に行ったことがありませんか?あそこにベルツ記念館というのがあると思います。伊香保温泉にもベルツ像があります。明治政府は西洋列強に追いつこうと、農業国だった日本を必死に近代化させようとします。その際に、欧州から様々な人が招かれるわけですが、そんな1人がドイツ人でありお抱え医師だったエルヴィン・フォン・ベルツです。さまざまなエピソードや影響があるのですが、その中で有名なものとして温泉による身体の療養に関しての効能を明治政府に勧めたということがあります。今は我々のような一般人が温泉に浸かるので、なるほどとおもいきや、当時は富国強兵の時代ですから、温泉による療養の目的は皇室や政府の要職、あるいは軍人のためでした。体育も発祥は国民の体力を増強し、軍人を育成するためなので、とにかく強い国を作り守ることが大事だったんですね。また、大正天皇の体調が思わしくなかったことはご存知かと思いますが、そのため大正天皇を皇太子時代より気遣い、多くの御用邸が作られました。皇居から遠い地方ではなく、比較的近い地域に作られる方がよいとされ、熱海、箱根、伊香保、那須湯本、塩原などにつくられました。御用邸には温泉が引かれ、なんとか健康を維持し、皇位を継承させようとしました。その際にベルツは投薬ではなく温泉によって療養すべしと勧めたのですね。それはドイツ本国におけるバーデンバーデンなどの温泉文化による影響もあるのでしょう。なお、温泉が一般人の観光にはっきりと開放されたのは戦後になってからです。
ベルツ水が何なのかわかりませんが…、とにかくそのベルツの影響を受けたなにかなのでしょう。建物自体は1929年(昭和4年)に建てられたものですから、関東大震災後となります。見た目がまさに昭和初期の意匠を満載にしているので、眺めていても飽きません。明らかに震災復興予算の影響を感じます。当時の市長である後藤新平による復興は結局失敗したのですが、靖国通り沿いにはこれ以外にも同様の建造物が建ち並んでいたのだろうと想像する事ができます。名称を「玉置文治郎ビル」といい、文化庁の文化遺産に登録されていました。オーニングテントの黄色が大変目立ちますが、ぼくの記憶では当初は漢字だったのではないかと思います。写真を検索すると、やはりそうでした。目新しいオーニングテントには、なぜかBlack Letterで店名が描かれています。Black Letterはドイツで、第二次大戦前に多用されたドイツ産のフォントなので、見た人にはなんとなくその時代の背景をイメージしてしまわれるのでは?と心配になります。
通りの名前はあったはずで、東日本橋にある有名な通りです。ここは旧街道だったところで、道幅からはそのころの面影を感じます。電車内の広告で見かける「サカゼン」の本店はこのあたりです。大きな男の店というキャッチとともに、タレントの石塚氏が思い浮かびます。
江戸屋というからには由緒正しそうだと思いましたし、見事な看板建築が目立ちます。登録有形文化財に指定されていました。
これは有名なお店でもありませんし、もはや廃業され、空き家のようでもあるわけですが、ぼくはこのような建物が何だったのだろう?と想像するのが好きなのです。みなさんは何屋さんだと思いますか?ぼくは美容院だったのではないかと思っています。建てたのはおそらく昭和10-20年代でしょうねぇ。古い建物は窓ガラスに手間がかかってますね。飾りがあったり、すりガラスだったり。
小津和紙では紙漉き体験ができるんですよね。こんど、娘と一緒に行ってみようと思っています。
日本橋
日本橋の十思公園は吉田松陰が処刑された場所です。江戸時代には牢獄がありました。それ以外にも公園内には様々な石碑が建てられています。
また、公園の隣には旧十思小学校校舎が残されているので必見です。震災後、昭和初期に建てられた小学校の校舎は、都内にはもうほとんど残っていません。多くは焼けてしまいましたし、取り壊されたものも多くあります。
神田、湯島
神田明神といえば天野屋の甘酒ですね。違いました?笑。ぼくにとってはこれなんですよ。甘酒が大好きです。甘いもの自体も好きですし、お正月の寒い時期に熱い甘酒で体を温めるのは最高の楽しみです!受験シーズンを間近に控えた湯島もたいへん混雑していました。ぼくも中学受験前には来ましたねえ。
これは湯島にあった下水道のポンプ所です。水圧を上げておくのが役目なのでしょう。建てられたのがいつなのか、わかりませんが、ポンプ所にタイル張りをするのもこの時期の建造物だからでしょうね。コンクリのたたきも、昭和期にある特徴をよく備えています。
谷中にあるお寺の中には、上野戦争で使われた銃による弾痕が残っているところもあります。
駒込、小石川
映画「天気の子」に出てくる、あの坂
新海誠の映画をなんでも観てるほどのファンではありませんが、東京をきれいに描くことに関してはとても優れた才能を感じます。東京に生まれた人にとって、東京を美しく描く作品というのは意外と多くないんですよね。
ここは、映画を観ててすぐに気づきました。なお、冒頭に出てくる船「さるびあ丸」は、大島へ行くのによく乗る船です。
小石川植物園の周囲の外壁は、江戸城の城壁に使われていた石を再利用したものです。瓦の家紋は本来は三つ葉葵ですが、裏家紋である六つ葉葵になっています。
やはり東京を巡るのにEバイクは最適だった
とまあそんな感じで、都内の東側を中心にですが、多くの旧跡をめぐりました。マップに記載があるところもあれば、ないところもありますので、実際に足で探す必要があるわけです。となると、徒歩でも可能ですが、Eバイクによる散策は最適だと思われます。もちろん、人力で頑張ることもできますけれど、以前も書いていますが、人力ですと漕ぐことに一生懸命になってしまい、町並みを観察する肉体的・精神的余裕が目減りしてしまいますので、Eバイクによる市街地サイクリングは最適だと思います。