[コラム] 自転車における愛着の形成について

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大事使う

軽快車でも新しいホイールはいいもんです。乗るときにはテンションあがります笑

軽快車をママチャリだと多少馬鹿にして呼んだりするけれど、しっかり作ってある製品はメンテナンスのしがいがありますし、整備すればほんとうに長持ちします。いじる方からしても同じ代金をいただく際にも高い価値を提供できるので、全てが楽しいし、気持ちいいものです。

そういうことが繰り返されると、その自転車がかわいくなってきます。愛おしくなってきます。どんなに古い自転車でも、まだ乗りたいと思うでしょう。初期投資額はどんどんと回収され、価値はプラスになってきます。それは良いサイクルだと思います。しかし、これとまったく逆の展開を繰り返す場合、自転車に対して失望し、いやになってしまうでしょう。

自転車に触れる

整備されていない自転車に乗っても、あまり楽しくありません。愛着が湧きません。愛着がわかないから整備を怠ってしまったのか、整備する価値がないと感じたのか。はたまた、未整備が続いたので愛着が減退してしまったのか、それはわかりませんが、おそらくは後者だろうと思います。ぼくがそう判断するには理由があります。

愛着を育むコツは人間相手と同じ。自転車に触れることです。人は直接触れたものに愛着を感じるようにできています。「愛着」という言葉は、例えば「この場所に愛着がある」「愛着がわいてきた」といったように、日常生活でも比較的使うことの多い言葉です。愛着とは「慣れ親しんだ物事に深く心を引かれ、離れがたく感じる」ことを言います。よく「今の自転車に慣れてきた」という表現を使います。これは技術的なスキルを発揮できるようになったという意味で使うこともあれば、なんとなくその自転車に安心感や親しみを感じるようになったとも言えます。おそらくは愛着の形成が先にあり、その上に「よりよく使おう」というアクションが実施されるのだろうと思います。

愛着を形成するためにおすすめするアクションは、洗車です。平たく言えば、クリーニングです。自分でやることが大事です。お金を払ってやってもらわないとできないことは、やってもらいまでしょう。でも最低限の基本となる愛着を形成するためには、まず拭いててみることが大事です。靴がわかりやすいですね。靴磨きを専門で商売をしている人に頼むほうが信じられないくらいきれいになります(蘇ります)が、定期的に自分でも磨いてみることで愛着が湧いてきますし、靴磨き職人の凄さがわかってきます。また、そのコストにも納得がいくようになります。どちらか一方ではなく、どちらもあるからわかることが増えます。いろいろなことに納得することができます。自転車というものが楽しくなり、希望が持てます。

どこで何を買うか

その際に、ぼくは製品の出来不出来と同じくらい、買い方が大事だと思います。先程の靴のたとえで言えば、かつてはお茶の水の平和堂で革靴を買うことに意味がありました。いまはもうないお店です。おなじような話はたくさんあると思います。社会人になってはじめて買ったスーツを革靴をどこで買ったか、今でも覚えています。でも、ネットで買ったら、あるいは量販で買ったら、覚えているかどうか疑問に思います。それほど、想いが乗るかどうかです。

これはスポーツ車にも言えると思います。スポーツ車においての良い製品を、走行性能だけで測ろうとする傾向を大変強く感じます。そこは我々のようなお金をいただいて人の時点をいじる側と、そうでない人とで、大きく認識に相違を感じる点です。どこで買っても同じであると、言えるかどうか。ぼくはそうは感じないのです。

「いや、人は良いものより売れるものが欲しく、それが正義だ。」とも聞きます。たくさん売れるものが良いんだ、またその手段が正義だ。まあそうかも知れませんが、そうでないかも知れません。視点を変えると色々な価値基準があるものだと思います。大衆はそうであっても、自分がそれと違えば、異なる製品を良しとするでしょう。

最近、お店が難しいなと感じるのは、コミュニケーション(会話)が減ったと思うことです。以前は都内の飲食でも小売でも、お店とお客がフェアに会話できるお店や環境がありましたが、いまは同じことがお互いの迷惑としても理解されるようにもなりました。評判を勝手に書かれますし、マスク文化によりそれらはさらに加速した印象があります。もちろん、以前からそれはそうだったが、言い出せるようになったので良いことであるとする意見もわかります。まったくその通りだと思います。しかしそのせいで、自らの発言に対して掘り返されたり、勝手に公開されたりする可能性について考えなくてはならなくなりました。結果として、率直にコミュニケーションできる環境は減ったのだろうと思います。どんどん減っています。お互いの想いがあるからこそ、ある種の強制力や押しつけだと言われる解釈も発生するわけで、現代によくある肯定と忖度に徹し、相手を傷つけないことを絶対正義にしたコミュニケーションの限界は、すぐに以前より多少は優秀になったチャットボット(ChatGPT等)に追い抜かれてしまうでしょう。

コミュニケーション(会話)をしない買い物に何が残るのでしょう?文字のやり取りは最近話題のチャットボットにも可能ですが、それと会話はまったく違うものです。そして、会話は間違うものであり、愛着形成のきっかけになる場合もあります。

初期投資をする際、それを使い続けた際に投じるコストへの価値観まで想像するのは難しいものですね。むしろ、ネット上に存在する情報の多くにとっては、その価値を想像させないことにポイントがあるのではないでしょうか?その部分をブラインドにするからこそ、”カンタンに”買ってもらえるんだと思います。感情を慰められ、会話なしに、その勢いで”ポチる”ことと、その先に愛着を形成できるかどうかは、関係しているのではないかと思いますが、いかがでしょうか?どんな買い方であっても大事に感じるようになるとは言えそうですけど、その先、つまり製品の先に人がいる感覚をどのくらい残せるかは、たいへん大事なことだと思います。