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まえがき
今回は、いまのぼくが自転車にのって何を楽しいと思っているのかや、そのきっかけにEバイクが大きく作用したことについて書いてみた。まだEバイクに乗ったことがない人は、「ラクにどこでも走れるから楽しいのだろう?」と思っていると思う。たしかにそういう面もあることは認めるが、あまりにSNS対応しすぎて切り詰めた言い方だと思うし、その背後には人力のほうが尊いのだという気持ちがあることも否定しきれないと思う。今ではすっかりEバイクをメインプレーヤーとして認めた欧州においてもかつては同じで、「Eバイクはペダルバイクに乗れない(弱い)人が乗るものだ」という認識だったのは確かだ。とはいえ、それはもう7-8年前の話である。今では、いや2-3年前にはすでに「Eバイクはペダルバイクとは異なる楽しさを味わえる、新しい自転車のスタイルである」と認識されるに至っている。
色々な自転車に乗ってきた
時系列を追って順番に書くと、BTR、MTB、BMXにロードバイクとたくさんの自転車を経験してきた。そのいずれもにおいて、乗り続けながらアップグレードやアップデートなど、パーツを刷新したり、更新したりすることに興味を持った。きっと、だれもが歩む道だと思うし、若年層であればあるほど、そういうことについての興味は大きいのではないかと思う。
ぼくの時代は自転車のフレームを作るための素材が大きく変化した時期だった。もうずいぶん古い話であるのに、47歳にもなると、「ちょっと前」などと言ってしまいがちだが、かれこれ30年も前になる笑。最初は鉄、そしてアルミが登場してきた。後にカーボンが登場するのだが、やはり一番面白いと記憶しているのは鉄とアルミとカーボンが混在している時期だと思う。今ではもはや死語として認識されると思うが、「新素材」という言葉が使われたのは、自転車だけではなかった。それ以外にも、マグネシウムやスカンジウム(アルミ合金の一種)やチタニウムなどをカーボンとも合わせては複合的に使う想像力が巧みな時代だった。素材ばかりではない。フレームの形状もさまざまなものが登場した。もちろん、自転車が発明されたときにまで遡れば、常に変化と進化を続けていると言えるものの、ある時期以降はトライアングルフレームがスポーツ自転車においてのスタンダードにはなっていたし、それは今と同じ形状である。
素材というファクターが変化することで、その形状の再発明がされ始めた。MTBにおいてはサスペンション(今の若者はフロントにさえも付いていなかったということを知らないだろう!)というものが登場することが、大きな変化を生じさせた。特にMTBにおけるリヤサスペンションの登場というインパクトは、それそのものを根底から再開発する必要が生じるものであったので、それまでメーカーが培った開発ノウハウをゼロベースにしてよーいどん!というくらいの衝撃があった。当時中高生だったぼくは、ノートに片隅に”オレが考える最強のリヤサスフレーム笑”というものを描いては、次にはどんな製品が登場するのだろう?と胸をわくわくさせていた。もちろん、ぼくが考えたフレーム形状にはなんの根拠もなく、まったくのいたずら書き程度である。まして、パソコンやスマホやネットや3Dプリンターまで当たり前に存在する今の世の中にいる学生からすれば、子供の遊びにしか見えないだろうと思う。ただ、言いたいことはそれくらい夢にあふれていたということだ。
しかし、進化は次第に緩やかになっていく。これは時代背景が大きな理由にあると思う。他の製品でもそうだが、一時期は次々と生まれていた新製品の開発が下火になるのと並行して、コモディティ化が進み、コスト安が求められてきた。現在でも変化が全くないわけでは無いが、当時のような革命的な変化というのはほぼなく、あくまで正常進化と呼ばれるラインの延長にあるもので、突飛押しもない製品はでなくなった。出にくくなったとも言える。自転車以外でもそうだが、実験的な製品が出てこないわけではないが、それを”製品”といえるレベルまで”持ち上げないといけない”という意味では難しくなった。クラウドファンディング等を利用して新しい製品も出ていないわけではないけれど、今の世の中で製品を作るということに対して必要なコストは、以前とは比較にならなくなっている。だからこそ、やらねばならないことを省くことで価格を下げただけの製品が登場してきているのだが…
Eバイクがきっかけになり変化した
ぼくはもうすっかり新製品には興味がなくなってしまった。機材に関する進化や変化の加速度が緩くなったことがあるものの、それよりもぼく自身の変化にその大きな原因がある。長くやっているといずれこうなるとも言えるけれど、ぼくにとってのきっかけはEバイクだった。Eバイクは「自転車を使って何をして、何を見て、どこへ立ち寄ると楽しいかだけ考えれば良いんだよ」ということを教えてくれた。Eバイクでは物語を大切にできるし、物語に集中できる。同じ物語を多くの人と共有できるし、その感想も同じようなスタンスから語ることができるから、お互いを肯定しやすくなる。ペダルバイクでもできると思うかも知れない。しかし、ぼくはあまりできたと思ったことはない。これはなぜなのか。
人力の自転車では、「どの敵をどの武器で倒したか」のような話をすることが多く、攻略法を出し合うことが多くなってしまっていた。その攻略法についても、「オレのほうが低いレベルで倒せた」「おれはこっちの武器をつかったからだ」「いやおれはこん棒だけでいけたぞ」というように競い合う場合が見られるので、レベルを上げまくった状態でボスを倒したとしてもあまり承認されず、それを単なる自己満足であるとに終えてしまいがちだ。それを「いや、そもそも自転車も趣味も自己満足なのだから、自分が楽しければいいじゃないか」と言うこともできるけれど、ぼくはそのように満足することはなかった。そこまで個人主義的なサイクリングは続かないし、楽しいと思えない。やはり、自分が楽しいを思うことはだれかと共有したいし、同じ時間に同じ場所で同じものを食べては「これおいしいね」と言いたい。どっちが良いか悪いか、強いか弱いかではなく、そういうコミュニケーションが好きだというだけだ。
楽しさの共有が容易
同じ時間を共有し、同じ景色を共有し、同じ気持ちになって、自分が一人ではないことを確認するための社会性を満足させることができるからこそ、ストレス解消というのは長続きするし、楽しいと感じるのだと思う。無人島か何かにいて、だれもおらず、だれとも触れ合わず、ただただ一人でペダルを漕いでいても、楽しいと感じるのは僅かな時間だろう。やはり、人間は他人がいないと楽しくない。ただ、その他人はストレスにもなる。
もちろん、一人で走ることも楽しい。一人はラクだ。自分のやりたいようにできるし、自分自身が自由であることを感じやすい。そうであれば、一人で走ればいいじゃないかと思うかも知れない。それで楽しいのだろう?と。ただ、束縛があるから自由を感じるだけであって、常に一人でいるだけとは違う。一人で走る人々が主にイベントを目指して走るのも、そのバランスからだろう。さらに、そこにはもう一つの大きな違いがある。ペダルバイク(人力)で一人で走った場合と、Eバイクで一人で走った場合では、その感想やログを他人と共有する際に大きな違いが生じるということだ。
前述したように、ペダルバイクの場合には自分がどの敵に挑み、どのようにそれと相対し、目的をどこに設定し、結果がどうであったかを話す場合が多くなる。たとえば、「倒すことはできなかったがオレは頑張ったし、戦えてよかった。」みたいなことを言わないといけない。そうでないと、今の自分に満足できないし、戦いが成立し得ないからだろう。
自転車において自分ではない誰かの走行ログを見る場合、それを自分の物語であると理解するにはコツが居る。記録したプライヤーのレベルがいくつで、どのようなジョブで、どの武器や防具を装備して立ち向かったのかがわからないと、それを理解することは難しい。つまり、自分がそこに行ったとしても、同じように楽しめるかどうか、あるいは達成できるかどうかはわからないということになる。場合によっては、きっと不安を感じると思うし、逆に敵が弱すぎてあっという間に倒せてしまう場合もある。このさじ加減がペダルバイクにとってポイントであるので、だれがいつどこへいって楽しかったのか、その一つ一つがとても大切になる。だから、ペダルバイクでのグループライドというのは難しいのだ。
しかし、Eバイクでは戦いそのものが存在しないように見える。「自分自身との戦いはあるのでは?」と思うかも知れないが、乗っている本人はほとんどそれを感じていないし、記憶することもない。とはいえ、そこまでラクすぎるというわけではないので、これはいつも不思議なことだと思う。”本人にとっての相対的に適度な運動”は十分に可能なのだけれど、「運動をしたんだ」という記憶はない。つまり、仮想敵が存在していないし、思い浮かべる必要性が生じない。とにかく楽しい笑。だから、乗っている間中ずっと、緊張感がなく、なぜかみんな笑顔になりやすい。ついつい、身体を左右に振りながら走りたくなってしまうし、走っている際に出会う多くの対象を自らの五感を使って観察することに集中できる。いや、自然とそうしてしまう。「あの山はなんだろう?あの建物は?次は何を見られるんだろう?」ということばかりを考えてします。だから走ったあとには、その物語を共有することが容易であり、お互いに共感も得やすく、肯定し合うことができる。”みんなで走るから楽しい”とは、まさにこのような状態において実現可能なのであって、単に物理的に近い距離にいるからなにか起きるわけではないというのが、ぼくの考えであり、Eバイクにのってわかったことである。
グループライドも容易
ぼくはよく言うのだけど、友人やパートナーからドライブに誘われた場合、よほどその人を嫌いな理由がない限り、そのオファーを断る人は少ないと思う。しかし、サイクリングに誘われた場合にはどうだろう?だれと行くかに加えて、その人と度のコースを走るか、あるいは天候は?などと、気になることしな思い当たらないと思う。走り始めればなおさらで、心配事は多い。どうしても強いメンバーと弱いメンバーが混在してしまうし、お互いをカバーし続けるためのコミュニケーションを図る必要がある。それがない場合、単に弱い方に配慮するだけになリ、”単に近くにいて走っているだけ”がグループライドだというしかなくなってしまう。しかし、本来はそうではないはずだ。
Eバイクで物語の共有が大変に容易なので、グループライドをする場合にもなんの難しさもない。何も考える必要がないくらいであり、その困難さを想像することも難しいくらい、実にかんたんだ。先ほどの例で言えば、まさにドライブをしているのに似ている。頑張っているのはクルマであって、人間ではない。Eバイクの場合には自転車として運動を伴うものの、それがどのメンバーにおいても一定以上の強度を超えにくいため、参加する誰一人として”自転車を要因とするストレス”を体感した記憶をほとんど残すことはない。また、老若男女誰でもドライブに誘うことができるように、Eバイク同士でのグループライドには誰でも誘うことができる。
旅の道具であり、旅の共有のため
実際に誰かと走る機会が少ない場合、メリットだと感じないかも知れない。実はぼくもしょっちゅう誰かと走るだけではなく、むしろその機会が今は多くない。しかし、グループライドが容易であること、これこそが物語の共有が容易であるということであり、それを実際に体感したことがない人にでも実感として楽しさを伝えることができるということになる。だから、いまのぼくはEバイクに多く乗っている。なぜなら、その楽しさが伝わるからだし、伝えることが容易だからだ。より多くの人に「自転車って楽しいんだね」と言ってほしいし、伝えたい。そのためにEバイクとともに伝えるのが効果的だと思う。
まずは練習をして、体力を増していき、ある一定以上になってこそわかってもらえたりするのに加えて、乗る機会が減ってしまったり、加齢を経てしまうと再びお互いを理解することが難しくなるペダルバイクよりも、より多くの人に楽しさだけを伝えることができるEバイクを選ぶ。自転車をハブにして、今すぐにお互いを理解することが可能になる。まさにそれは、一緒に旅をするということそのものであり、もはや今のぼくにとって、自転車は単に旅をするための移動手段に過ぎないのだろうと思うし、なんのパーツがついているかを気にすることなく、自転車での旅を楽しむ人がもっともっと、一人でも多く増えることを願っている。