[コラム] 隅田公園の桜は今が満開です!

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皆さんご存知でしょうか?

じつは隅田公園、ちょっと前から改修を進めていました。ちょっと前といっても、何年もかけていました。それが先月ようやく完了し、一区切りを迎えました!
隅田公園がリニューアル ひょうたん池を拡張、遊歩道やカフェ整備も

ぼくが小さい頃の話をしても仕方がありませんが、休日に隅田公園に行くということはほとんどありませんでした。ウチだけではないと思います。今は大きな芝生のひろばがあり、そこでは多くの人が休んだりして自由に利用できています。しかし、当時は砂利で楕円の形状をした広場があり、球技で使用できないようにと真ん中に時計が建っていました。しかも広場の地面は微妙にうねっており、何に利用されることも無かったと記憶しています。

その広場を取り囲むようにベンチが内側にぐるりと設置されていたのですが、そこにはほぼ間違いなく老人たちが座っていました。ですから、まず子どもが遊ぶようなスペースではありませんでした。家族連れで安心して滞在できるスペースでもなく、何もできないスペースがポカンと存在していました。それでも、平日には保育園の遊び場として利用されたりしたものの、むしろ土日は何もなかったように思います。

ぼくが幼児の頃まで遡ると、高速道路の真下を通る道路は日曜になると、9時〜17時で歩行者天国になっていました。「向島ICの入口があるのに?」と今は感じるでしょうけれど、その当時はそうでした。それは、隅田公園の改修は後藤新平による関東大震災後の帝都復興計画においては重要だったからであり、その名残りとしてそれぞれの時代において利用方法が検討された結果なのだと思います。当初の計画では、川岸から道路を横断して公園スペースに食い込む広い歩行者通常道路がありました。帝都復興計画は予算削減によって完全な形での完成ができなかったばかりか、ほとんど実行されずに終わりました。もしあのとき、町を作り直す事ができていたら、空襲での被害に多少の影響はあったかもしれません。

隅田川は墨田区側と台東区側の間に流れており、隅田公園は約1.3キロにわたって作られた、日本で最初のリバーサイドパークです。現在はいずれの側にも桜の木が見られますが、墨田区側に隙間なく並木が植えられているように見えると思います。昭和初期には、震災で燃えてしまった桜を墨田区側に復活させ華やかにし、台東区側には柳を植えることで落ち着いて過ごせる場所にするという使い分けがありました。台東区側の桜に隙間があるのはそのためです。

上で書いた謎の広場が残ってしまったのは、旧水戸藩の屋敷跡であった場所を昭和初期の造成によって日本庭園にしたことが中心にあるからです。庭園がメインであり、なんとなく広場を作ってみた…という感じだったのでしょうが、あれでは利用されませんね。隅田公園は、関東大震災後に東京に設置された3大公園の一つで、他に錦糸公園、浜町公園があります。人びとの憩いの場になるという機能以外に、火除け地や避難場所として機能することが重要にされましたが、その願いは叶わず、それからわずか20年足らず後に、同じ場所で多くの人が亡くなることになってしまいました。なお、3大公園には含めませんが、横網町公園にある東京都慰霊堂(旧震災記念堂)もまた、墨田区の当地域では大切な場所です。昭和5年に関東大震災でもっとも多い58,000もの人がなくなった場所にメモリアルパークとして作られました。その後、東アジア太平洋戦争でなくなった方々を慰霊する機能をあわせ持った形で東京都慰霊堂として改められ、現在に至ります。

ぼくはごく一般的な48歳の男性なので、桜という樹木に対して単に華やかでキレイだという印象を持つだけではなく、それが象徴してきた悲しみや儚さをも思い浮かべずにはいられません。特に墨田区は関東大震災と東京大空襲という2つのたいへん大きな出来事のど真ん中で体験してきた場所であり、そうした歴史に対する認識は地元の学校教育においてもたいへん重要なものとされてきました。今回挙げた場所以外にも、小さな公園や川岸には慰霊碑が数多く建てられており、その一つ一つの場所では実際に多くの方が亡くなられたことを示しています。

そうした場所が現在のように、子どもたちや家族連れ、あるいは外国からの観光客を交えたかたちで、多くの人びとが自由に利用したり交流したりすることができる空間になったのは、たいへん喜ばしいことだと思います。

自転車でお越しの際にはぜひ立ち寄ってみてください。